
甲本ヒロトが書く歌詞には「永遠」という言葉がたびたび用いられる。
その意味は曲によって正反対で、良い意味で使われることもあれば、悪い意味で使われることもある。
なので、ただ文字通りに受け取ると疑問に思うかもしれない。
そこで、ヒロトの歌詞で使われる「永遠」の2つの意味について自分の考えをまとめてみた。
甲本ヒロトの歌詞で否定される「永遠」と肯定される「永遠」
まず、否定的に捉えている歌詞について。
例えば、ハイロウズの「不死身の花」。
永遠にずっと変わらないなんて
燃えないゴミと一緒じゃないか
他にも、ヒューストンズの「ほんの少しだけ」。
永遠なんて いらないよ
僕が欲しいのは 今
生きている 間だけ
ほんの少しだけ
これらの曲では「永遠」が否定的に使われている。
「永遠なんてゴミと一緒で、そんなものいらない」とばっさり切り捨てている。
一方、良い意味で使われている曲もある。
クロマニの「南南西に進路をとれ」では、わざわざ「無限」を言い直してまで、「永遠」を求めている。
オートバイ 一番好きな場所へ
永遠なんだぜ 無限じゃない 永遠だぜ
同じく、クロマニの「連結器よ永遠に」。
連結器 あこがれの
連結器 黒光り
連結器よ 永遠に
「ほんの少しだけ」では省略したが、歌詞の前段をみると宝石の永遠の輝きを否定していることがわかる。
ダイヤモンドの永遠性は否定するのに、「連結器」の永遠性は望んでいる。
それが冒頭に書いた、ヒロトの永遠への態度の(表面的な)矛盾である。
でも、よく考えてみると全然矛盾していなく、それどころかスゴく一貫していることがわかる。
甲本ヒロトが否定する永遠性と肯定する永遠性
この矛盾を解くヒントは「ほんの少しだけ」の歌詞の中にもある。
「僕が欲しいのは今」。
ヒロトの生き方や考えとして「今がすべて」というスタンスは有名なものだろう。
(このブログの別記事でもそのことについて書いている)
つまり、ヒロトが否定する「永遠」は【「今」と対極にあるようなずっと先の未来、文字通り時間的な永遠性】。
人間の寿命は限られてるのに、宝石の永遠の輝きなんて意味ないじゃん、ということである。
では、肯定する「永遠」とは何か。
例に挙げた「連結器」というのは(あえて書くのも野暮だけど)性器・性行為の例えで、「南南西に進路をとれ」も大好きなバイクで飛ばしている最高に心地いい瞬間を歌ったもの。
ここで使われている「永遠」は形容句の一種で、本質的に望んでいるものは【永遠を感じるような、永遠を望むような「今」】である。
同じ「永遠」でも、意味しているものは全く別物。
対比すると、前者は「物理的な永遠」、後者は「身体感覚における永遠」と言える。
そして、永遠を否定してる場合も肯定してる場合も、つまるところ「今この瞬間」を謳っていることがわかる。
そんなヒロトの「永遠」は、ある詩に通じるものがある。
映画「博士の愛した数式」のエンドロールでも流れる、イギリスの詩人ウイリアム・ブレイク「Heaven in a wild Flower」の中の一節。
一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 1つの天国を見
手のひらに 無限を乗せ
一時のうちに 永遠を感じる
ヒロトが謳う「永遠」は、この詩にあるような「一時のうちに感じる永遠」なのだろう。
永遠はあるのか?「情熱の薔薇」で問いかけ、「突撃ロック」で答える。
あえてここまで触れなかったが、「永遠」という歌詞がもっと印象的な曲は他にもある。
多分、「永遠」で多くの人が一番に思い浮かべるのは「情熱の薔薇」か「突撃ロック」じゃないだろうか。
どちらも名曲というのもあるが、何より歌詞が「永遠」で始まっている。
自分は「突撃ロック」を聴いた時、「情熱の薔薇」の問いにヒロト自身で答えているように感じた。
「情熱の薔薇」ではこんな疑問が投げられている。
永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか
この「永遠」には物理的/身体的な意味合いが両方含まれているように感じる。
「いつまでもずっと(=有限の中で永遠的に)、『永遠を感じる一瞬』を味わえる。そんなものはあるだろうか?」
という2重の永遠性を含んだ問いのように受け取れる。
それから20数年後に発表された「突撃ロック」の歌詞。
永遠です。
永遠です。
永遠です。
突撃ロック
ロックは永遠を感じる一瞬を味わえる。
それはこれまでも変わらなかったし、これからもずっと変わらない。
情熱の真っ赤な薔薇が枯れることはない。
「突撃ロック」には、そんな確信が込められているように感じる。
ここまでヒロトの歌詞だけ取り上げてきたが、マーシーの歌詞にも同じことが言える。
突撃ロックとほぼ同時期に発表されたマーシー作詞作曲の「バニシングポイント」
背骨 力 チャンスは到来
いくぜ いつか 消えてしまうなら
熱狂の中 永遠を見たか
行くぜ 今だ ハリケーン
肯定的な意味合いで使われているこの「永遠」も、瞬間的・身体感覚的なもの。
ライブの熱狂の中でずっと体感し続けている永遠のようだ。
さいごに
別記事でヒロトと某哲学者の実存的感覚は共通していると書いた。
甲本ヒロトは『鉄カブト』で何を捨て、何を歌ったか。
この記事でも書こうと思ったけど、また長くなりそうだったので、最後に少しだけ触れたい。
哲学者の有名な思想に「永遠回帰」というものがある。
これはややこしい説としても有名だけど、本質的な一側面としてはこの記事で書いた内容と同じだと思っている。
哲学者の思想の始発点となったのがキリスト教批判だが、そのキリスト教(に限らず、多くの宗教・スピリチュアル的なもの・中世くらいまでの哲学)の考えは、「この世は仮の宿で、死後の世界こそ真なる世界で永遠不変」というもの。
哲学者はその「永遠性」をクソ食らえと否定し、代わりに創りだした価値観が「永遠回帰」。
だとすると(死後の永遠性を否定しているのだから)、肯定しているのはやはりヒロトと同じように「今の瞬間的な永遠性」だと理解できる。
さらに「回帰」するということは、その「永遠を感じる一瞬が何度も何度も反復的に/永遠的に訪れる」という2重の永遠性を含んでいると考えられる。
(永遠回帰には「たった一回でも永遠を感じるような幸福があれば、人生そのものが救われる」といった解釈もあるが、何度でもある方がどう考えても幸せなので、自分はそう解釈している。)
永遠を否定し、同じ永遠という言葉を用いて今を肯定する。
その辺が二人はすごく似てるなーと感じるし、興味深いところだ。
(絶対ヒロトは意識してないだろうけど、だからこそ感性が似てるなと思う)
ごちゃごちゃ書いたけど、シンプルに考えて、そんな状態で生きられたらすごく幸せだろうし、きっとヒロトもマーシーもそんな「永遠が回帰する世界の住人」なのだろう。
もちろん、万事ハッピーとはいかないアレやコレやもたくさんあるだろうけど。
それらを全て吹っ飛ばして余りある「今」と「永遠」があるんだろうなと想像する。
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