【「セッション」レビュー】「人生で最高の映画は?」と聞かれて即答する一本

映画「セッション(原題:WHILPLASH)」を鑑賞した。

シンプルに感想を書くと、凄く面白い!
1秒足りとも退屈なシーンはなく、最後の一瞬まで圧倒された。

予告編動画での「ラスト9分19秒ー映画史が塗り替えられる」というコピーも全く大げさに感じないほどのインパクトだった。

鑑賞後、すぐに2回通して全編リピート。部分的には4、5回再生してるシーンも少なくない。
(3回目以降は記事を書くためという理由もあるけど)

という感じで、かなり感銘を受け、面白かったのであらすじや感想を紹介したい。
※基本的に、鑑賞後に読まれること前提。

「セッション」 作品情報・あらすじ

出演 マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
監督 デミアン・チャゼル
音楽 ジャスティン・ハーウィッツ
公開 2014年
公式サイト http://session.gaga.ne.jp/
あらすじ

アンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、歴史に名を残すような偉大なジャズドラマーを夢見て、アメリカで最高峰のシェイファー音楽学校に進学する。
そこで、名指揮者テレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)に見込まれ、彼のバンドのドラマーとして指導を受けることになる。

ニーマン同様、偉大なジャズプレイヤーを育てることを絶対的目標とするフレッチャー。
彼の指導は容赦ないものだった。

スパルタという言葉では生易しいほどの暴言、暴力とシビアな要求の嵐。
文字通り血と汗を流しながら、練習に打ち込むニーマン。

やがて努力は実り、コンクールに優勝し、ニーマンは正規ドラマーの座を勝ち取る。
プライベートでも上手くいき順風満帆に見えるが、苛烈な訓練の果てにニーマンの精神は変調をきたし始める。

ついにはフレッチャーへの不満が最悪のタイミング・最悪の形で暴発。
ニーマンは音楽学校を退学となり、「偉大なドラマー」への道は途絶えてしまう。

ドラムから離れることで平穏な日常を送るニーマンだったが、ある日偶然ライブにゲスト出演してるフレッチャーと再会する。
過度な指導に対する生徒からの密告で(?)フレッチャーもまた音楽学校から去っていた。

話をする中で二人の過去のわだかまりは次第に解消。
別れ際、ニーマンはフレッチャーの新たなバンドに誘われ、再び彼の指揮の元、音楽祭で演奏することに。

だが、音楽祭当日、その誘いはフレッチャーの「罠」だったことを知る。

ニーマンは失意のどん底でステージを去ろうとする。
しかし、ストーリーと演奏は予期せぬ方向へ加速。
全ての解釈を飲み込み、ただ観る者を圧倒するような圧巻のクライマックスを迎えるー。

第87回アカデミー賞で助演男優賞にJ・K・シモンズが受賞した他、編集賞、録音賞を受賞。

【「セッション」 感想】「これまで観た中で最高の映画は?」と聞かれたら即答する一本

「人生で最高の映画を一本だけ選ぶとしたら?」という質問は、結構悩ましいものだろう。
自分も今まではすぐに答えられかった。

でも、見出しに書いたように、今後は「セッション」と迷わず答えられる。
それくらい感銘を受けた作品だった。

感想も解釈も書こうとしたら、いくつも挙げられる。
が、一つだけそれほど琴線に触れた理由を挙げると「才能に殉じる」というメンタリティではないかと思う。

ニーマンもフレッチャーも無類のジャズ好き。
プレーヤー/コンストラクターとしての資質にも恵まれている。

作中では二人が、その「好き」と「才能」だけを両手に携え、猪突猛進していく姿が描かれている。

身近な人間関係や自分の体を壊しても練習に打ち込むニーマン。
モラルも限度も無視してプレッシャーをかけるフレッチャー。

それは人としても音楽としても決して全肯定はできないものだろう。

それでも、その姿はこの上なく眩しく、羨ましいと感じるものだった。

才能あるミュージシャンでもなんらかの事情で活動を止めてしまうことはままある。
そういう事態を目にするたびに、「せっかく才能を持って生まれてきたのに」と心底残念になる。

大の音楽好きだけど才能がゼロ以下な自分には、せっかく当たった一等の宝くじをむざむざ捨ててるように見えるのだ。

ニーマンは自分の才能の芽を自覚し、それを開花させることだけに専念する。
しかも若いうちから才能に気づき、さらに伸ばしてくれる指導者にも見出される。

それはもう、一つの人生の理想形に思える。

モラルや人間関係をぶっ飛ばしても、突っ走るべきだろうと思ってしまうのである。
モラルや人間関係など一般的な尺度では計れない世界の話だと思ってしまうのである。

映画のラスト。
果たして、二人は「普通」を超えた高みに到達する。
その瞬間、すべてが報われる。

すべてが報われる。それは心底眩しい瞬間だ。
そんな瞬間が自分にもあったら、と。この映画をみると心からそう思わされる。

フレッチャーのようなスパルタに耐えられる自信はさらさらないけれど。

ラストの演奏後、満足げな表情を浮かべるニーマン

スパルタ指導への批判に対する意見

フレッチャーの過剰な指導方法に対する批判的な意見を見かける。
感想でも「個人的には気にならない」と書いたが、その点についてもう少し補足したい。

この映画では余分な情報をそぎ落とすため、洋服の文字など余計な文字情報が丁寧に排除されている。

その中で、唯一デカデカと登場する文字がある。
それは次の単語。

ニーマンと父親が観る映画のタイトル

「RIFIFI」は米題で、フランス語の原題と邦題は「Du Rififi chez les Hommes・男の争い」。
ストーリーの内容は「ギャング間の抗争」。

映画の冒頭で、この文字だけ見せつけてくるのはもちろん偶然ではない。
観客にこれからニーマンVSフレッチャーの「男の争い」が始まると宣言しているのである。

その「注意書き」を尊重した上で作品を鑑賞するとしたら、この映画を「行き過ぎたスパルタ・アカハラ・パワハラ・ブラック企業的」といった一般社会的な上下関係の文脈で解釈することに疑問を覚える。

だって、この映画は、これは「RIFIFI(ギャング同士→つまり一般通念とは別世界における男達の闘い、タイマン)」だとキチンと前置きをしているのだから。

確かに、一般的に捉えるのも無理はないんだけど、「作品の解釈」をするなら作り手の想いに寄り添うことも大事なんじゃないかなと。

それに一般常識をあてはめると反感を覚えるのは当然で、でもそれでこの映画を楽しめないのはすごくもったいないなと思う。

松本大洋「ピンポン」にあって「セッション」にないもの

厳しい練習について、「セッション」を見ながら頭によぎったものがある。

それは、漫画家、松本大洋の卓球漫画「ピンポン」。
ピンポンも時代錯誤チックな血しぶき舞い散るスポ根もの。

でも、「ピンポン」を「行き過ぎ」と批判する声は(おそらく)ない。
その理由は、漫画ということが大きいにしろ、画風や作中の描き方もファンタジックで超現実的な描写が見られるから。

つまり、「リアルとは一線を画した世界の話」ということが明示的だからだと思う。

そういう意味で、「セッション」の落ち度としては「線引き」が足りなかったのだと感じる。
「RIFIFI(男の争い)」という注意書きだけでは、いくら強調してるとはいえ、大半の観客には意識すらされないだろう。

もっとハッキリ「普通の世界とは距離をおいた世界の話ですよ」と観客に伝えられていれば、「体罰ダメ絶対」といった一般的である意味当然のリアクションは起こらなかったのでは?と思う。

まだ観てないが、デミアン・チャゼル監督の次回作「ラ・ラ・ランド」はミュージカルとのこと。
ミュージカルというリアルと一線を画した体をとれば、過剰な要素を盛り込んでも、「普通のものさし」で測られずに、自然に受け入れられやすい。

なんとなくだが、監督は「セッションの失敗」を踏まえ、そういう計算をして、ミュージカルという手法を取り入れたのかも、と想像している。
その辺のことも踏まえて、またいつか「ラ・ラ・ランド」を鑑賞したい。

さいごに

他にもセッション関連の記事を書いているので良かったらぜひ。

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