おそらくこの作品の中で最も重要かつ意見も分かれているポイント、「クライマックスのフレッチャーの行動」について、自分の解釈を書きたい。
完全にネタバレありなので、鑑賞後に読まれること前提。
あらすじや全体の感想はなしで、ピンポイントで解釈についてだけ書いていく。
クライマックスのフレッチャーの行動とは
観た人には言わずもがなだけど、「フレッチャーの行動」というのは、ニーマンに嘘の演奏曲を伝えて失態を晒させたこと。
「解釈が分かれている」というのはこの行動は善(意)か悪(意)か?という点。
善(意)だとすれば、「ニーマンを追い込み、鍛えるための、指導の一環」。
悪(意)だとすれば、「ニーマンに密告されて(?)職を追われたことへの復讐」と取れる。
結論を先に書くと、自分の考えは前者。
ストーリー上、前面に見えるのは「復讐」である。
その一面が全くないかというと、あるかもしれないし、正直なんとも言えない。
でも、少なくとも善の部分もあるし、そちらの要素の方が大きいと考えている。
理由は、ストーリーの流れ、構成的にそう捉えるのが妥当だから。
前回の記事で、ビジュアル面においてこの作品がものすごくロジカルに構成されてるという説明をした。
「【徹底したミニマニズムの結晶】Webデザイナーがデザイン的観点からみた映画『セッション』の凄さ」
ストーリーにおいても、全く無駄がなく、ロジカルに組み立てられている。
その視点で紐解くと、最後の行動を単なる復讐と捉えるのは難しい、と思うのだ。
ざっくり論旨を説明すると、
【後半の「仕打ち」を含む一連のシーン】は、【序盤の一連のシーン】の繰り返しになっている。
そして、【序盤のシーン】は明らかに指導の一環と見なせる。
その論理を踏まえると、【後半のシーン】も指導のためと考えられる、
ということだ。
まずは、【後半のシーン】と全く同じ流れがみて取れる、【序盤のシーン】について説明する。
後半全く同じように繰り返される【序盤の4つのシーン】
「序盤の一連のシーン」とは次の4つの場面。
初めてフレッチャーがニーマンを自分のバンドに呼び、練習してるシーンだ。
「伝説になれた理由」とは
「チャーリー・パーカーは十代のころ演奏で失敗した際、ジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ笑われてステージを降りた 。でもその失敗と厳しい指導があったからこそ成功した」
というもの。
このエピソードはこのストーリーのキーとなっている。
この「演奏を楽しめ」というセリフは結構引っかかって頭に残らないだろうか?
自分の場合、かなり違和感があって印象的だった。
何しろ、すでに「楽しむ」とは真反対の練習風景をたっぷり見せられているので、とてもすんなりとは飲み込めない。
後述するが、これは作り手があえて記憶に残りやすいよう、フックになる言葉を選んでると思われる。
この「椅子を投げる」という行為。
これは善意・指導の一環か?それとも単なる悪意でニーマンを傷つけるためか?
という問いであれば、おそらく大半の人は「善意・指導の一環」とみなすだろう。
「偉大なアーティストになるためには、シンバルを投げられるようなスパルタ指導が必要」と直接ニーマンに語っている。
その直後に、椅子を投げているので明らかに「スパルタ指導」を意図したものとわかる。
「お前を偉大な演奏家にしたい、そのために厳しく指導するぞ」という意思表示と受け取れる。
それはニーマンにとって、厳しいながらも光栄でもあるだろう。
以上が【序盤の一連のシーン】。
この4つのパートと全く同じ流れが後半でも見られる。
序盤の4つのシーンがもう一度繰り返される後半のシーン
後半も画像で流れを確認。
この3つは序盤のシーンと全く同じ流れだとわかるだろう。
この後、序盤の「椅子投げ」のような何かが起こると不穏な予感を抱かせるし、実際、この後フレッチャーの「仕打ち」が待っている。
まとめ
全く同じ流れが繰り返される序盤と後半の4つのシーンを見てきた。
この4つの繰り返しはただの偶然とは考えにくい。
特に3つ目の「楽しもう」というセリフ。
前回の記事に書いたように、ミニマニズムの極地のようなこの作品が無意味に「楽しもう」なんて違和感を残すセリフを使うはずがないし、まして繰り返さない。
そして、意図的だとすると、その意図は「序盤のシーンの繰り返しだと示唆するため」ということになる。
「楽しもう」という言葉とは裏腹にこの後「椅子投げ」に相当する何かが起こるぞ、と。
最後の仕打ちを「意外な展開」と捉える人も少なくないだろうけど、「仕打ちが待っている」所までは観客に想定されても問題ない、むしろ積極的に予測させる作りになっている。
ここまでは作り手は「意外性」を仕掛けていない。
序盤のシーンと同内容のものと見なすことができる。
つまり、等式で結論をまとめると、
「序盤の4つのシーン」=「後半の4つのシーン」
「椅子投げ」=「事前に違う曲を伝える」で、
「椅子投げ」=「指導の一環」だとすると、
「椅子投げ」=「事前に違う曲を伝える」=「指導の一環」
となり、最後の仕打ちも悪意からの復讐ではなく、あくまで子を谷底に突き落とす的な善意から発した指導の一環であると考えられる、ということである。
4つの展開と同様、「熱心な指導者」だったフレッチャーが、単なる復讐の鬼だったという「転換」は作り手が演出したい意外性ではない。
作り手が仕掛けた、それまでの流れを裏切る「意外な展開」は別のところにある。
作り手が仕掛けた「意外性」とは
では、作り手が仕掛けた「意外な展開」とはどこだったのか?
【序盤・後半の4つのシーン】のように伏線を敷いたが、【序盤・後半の4つのシーン】とは違い、あえて逸脱させているポイントはどこか?
それは、(説明するまでもなく)ニーマンが失態をさらしても折れずに、フレッチャーの想像を超える演奏を見せるところだ。
ここがフレッチャー含め観客の予想を裏切り、物語のクライマックスとなっている。
ひいては、作り手が意図的に仕掛け、用意した意外な展開といえる。
ニーマンがたまたまバーでフレッチャーにあった際、フレッチャーは次のように話している。
十代の彼はサックスの名手
だがジャム・セッションでヘタをさらした
ジョージョーンズにシンバルを投げられ
笑われてステージを降りた
その夜は泣きながら寝たが翌朝は?
練習に没頭した。来る日も来る日も1つの誓いを胸に
二度と笑われまいと
1年後 またリノ・クラブへ
また、フレッチャーは (褒められたら、それ以上成長できない、という意味で)こうも語っている。
英語で最も危険な言葉は この2語だ
「good job(上出来だ)」
これが最後に逸脱させるためのポイント・伏線となっている。
ラスト、ニーマンも失態を演じ、シンバルを投げられたチャーリー・パーカーのようにステージを降りかける。
しかし、ニーマンは踵を返しステージに戻る。
そして、フレッチャーの予想を超える演奏をし、「good job」は禁句と言ったフレッチャーに「good job」と言わしめる。
さいごに
作品の構成、作り手の視点に立って、問題のシーンについて解釈してみた。
できるだけ客観的に作品に倣ってロジカルに、と思いつつ、やはり納得できるできないはあるだろう。
一つの見方として参考にしてもらえたらと思う。
最後に、合わせてごく主観的な感想も。
個人的な感覚でもやはり「指導の一環」だろうなというのが一番の印象。
フレッチャーはバーでこんなセリフも言っている。
(叩かれないと「バード」という超一流のプレーヤーは生まれていなかった)
「私にしたらそれは究極の悲劇だ」(「でも一線がある。あなたはやりすぎて次のチャーリーを挫折させたのでは?」というニーマンの返答を受けて)
「次のチャーリーは何があろうと挫折しない」
フレッチャーにとって、超一流のアーティストが生まれるか否かが最大にして唯一の関心事。
私利私欲や私怨をはるかに超えた動機が根っこにある人物だと伝わってくる。
その結果潰れるプレーヤーが生まれてしまうこともあり、それも含めるとトータルで善と言えるかは難しい。
ただ、少なくともフレッチャーの言動の根本にはフレッチャーなりの善意と正義があり、すべては「指導」のためと言えるように思う。
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