RADWIMPS「HINOMARU」歌詞問題の本質を考える

RADWIMPS「HINOMARU」が「愛国的」と賛否や議論を巻き起こしているので、その問題の本質とは何か?自分の考えをまとめてみたい。

画像は 「HINOMARU」が収録された「カタルシスト」のジャケット。

2つの愛国心 「ナショナリズム」と「パトリオティズム」

今回の騒動を見る際は、「愛国心」を2つに分けて考えると分かりやすいと思う。

一つは nationalism(ナショナリズム)
もう一つは patriotism(パトリオティズム)

ナショナリズムは一言で言ってしまうと「政治的な愛国心」
これは戦時中の日本に顕著に見られた風潮で、近いものに国粋主義・排外主義がある。
戦争肯定や軍国主義にも結びつきやすい。

一方、パトリオティズムは「郷土愛的な愛国心」
これは生まれ育った国に対して培われる愛着で、人間の心理としてごく自然なものと言える。
「土着的愛国心」という意訳も見かけたことがある。

この辺ももしかしたら色々な意見があるかもしれない(「パトリオティズムもナショナリズムに繋がる」など)。
自分は十分、分類する意味はあると思うので、とりあえず上記の分け方で話を進めたい。

一般的に「愛国心」というと、ナショナリズムを指すことが多く、問題視されるのもナショナリスティックな愛国心だ。

野田洋次郎が「HINOMARU」の歌詞に込めた「愛国心」はどちらか?

野田洋次郎は騒動後、Twitterで次のようなコメントを出した。
Yojiro Noda

戦争が嫌いです。暴力が嫌いです。
どんな国のどんな人種の人たちとも、手を取り合いたいです。

HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。
そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。ありません。
誰かに対する攻撃的な思想もありません。

この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。
みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。

政治的、排外的な愛国心の意図はないとはっきりと否定。
野田洋次郎がこの歌詞に込めたのは「ナショナリズム」ではなく、「パトリオティズム」であるということが伝わる。

まぁ、普通に考えて今の大多数の人間はナショナリズムに共鳴するわけがないので、当然そうなんだろうなと思う。

「HINOMARU」の歌詞に見られる「愛国心」はどちらか?

目に見える歌詞は丸っきりナショナリズムの権化、戦時中の軍歌としかいいようがない。

「高鳴る血潮」「気高きこの御国の御霊」
「さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の元に」
「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」

これだけ「生死、戦闘、カミカゼ特攻隊」を連想させる言葉が散りばめられているので、軍歌を思い浮かべない方が難しい。

国粋主義的国家神道が元になってないのだとしたら、「御国の御霊」って一体何のことだろう?
素朴な郷土愛的愛国心で「たとえこの身が滅んでも」と意気込むことなんてあるのだろうか?
と純粋に疑問が浮かぶ。

「HINOMARU」歌詞問題の本質とは

問題は野田洋次郎が歌詞に込めた中身は 「郷土愛的な愛国心」なのに、外身は「政治的な愛国心」に見えることだろう。

インプットしたのは「パトリオティズム」。
でも、アウトプットされたものは「ナショナリズム」。

単純にこのネジれが、この問題の本質だと思う。

では、なぜアウトプットされたものが軍歌みたいになってしまったのか。
twitterのコメントによると野田は軍歌を全く意識していなく、「歌詞で古語をよく使ってるから」らしい。

HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。
そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。

日本の歌を歌う上で歴史の上に成り立っているこの今の僕ら、その想いものせたかったので古語的な日本語を用いたのも一つの要因かもしれません。
僕は色んな曲で古語を使うので自然な流れでした。

この一連の騒動で自分が一番驚いたのは、この「軍歌を意図してなかった」という点だった。

「核に思想的なナショナリズムなんてない」のは最初からわかっていた。
ただ、これだけ軍歌っぽくしたのは、何かしらの意図があるとも思っていた。

例えば「軍歌の精神性には共感しないが、国威発揚の表現手法として軍歌的意匠を取り入れた」など。

それがまったく意識してなかったというのは、ちょっと理解しがたかった。
軍服着て銃を構えながら「戦争反対」と叫んでるようなチグハグさを感じる。

平和な愛国心を歌いたいのに、よりによって最も排撃的愛国ソングである軍歌っぽく仕上げてしまう。全く無自覚に。

だとしたら、これは単なる表現の失敗なんじゃないだろうか。
(軍歌っぽく郷土愛を歌うのは自由だけど、無自覚に本来の意図に反した伝え方をしてしまったという点において。)

少なくとも、自分が携わっている「デザイン」の領域だと「軍歌を意識せず、軍歌っぽくなる」のは簡単に失敗と断定できる。

「古語は好きだから使っただけ」なんて言い訳も通用しない。
事前の「愛国」表現に関するリサーチ不足に過ぎないので。

音楽とかアートの領域になると、「表現の自由・アーティストの個性」という不可侵の聖域があるので、それでも失敗とは言い切れないのかもしれないが。

まとめると

一連の騒動は次のような感じだと思う。

軍服を着て「愛国心」を歌ったら、当然周りにナショナリズム高揚と受け取られた。
でも、本人はそもそも軍服という意識がなく、ただミニタリー物の見た目が好きで着てただけ。

その後、批判を受けて釈明。

野田「伝えたいのはナショナリズムではなく、パトリオティズム。日本への郷土愛を歌って何が悪いんですか?」
世間 「誰も郷土愛が悪いとはいってない。だったら紛らわしいからわざわざ軍服着て歌うな」
野田 「あ、これ戦時中、戦闘のために着てたやつだったんですか?」
世間 「・・・」

RADは存在が大きすぎて大事になるけど、歴史や政治への関わりの薄い、いちミュージシャンのささいな失敗に思える。
(色々書いてきたが、自分も詳しくないし、右や左もなんとなくわかる程度)

気になるのは周りの大人はどう考えてたのか?
野田自身が話題作りを優先することはなさそうだが、周りの大人は「問題になりそうだけど、話題になるならいいや」とスルーしたというのはありそうな気がする。

さいごに

愛国心が生まれる要因を考えると、「個人のアイデンティティーの不安や闇の裏返し」という見方もできる。

主体の弱さや不確かさは、帰属するものへの意識を高めて、拠り所にしようとするからだ。

戦時中の日本で愛国が叫ばれたのは、他国からの脅威にさらされた、自国のアイデンティティーの脆さの裏返しでもあった。

下記記事ではそんな文脈で「HINOMARU」を解釈している。
(公開は野田洋次郎のTwitterコメントの前)

「RADWIMPS新曲に見る「無邪気な愛国ファンタジー」の果てにあるもの」

でも、「HINOMARU」はそんなネガティブな心性による反動形成で生まれたわけではない
(その辺はポジティブなメッセージであるというコメントを信頼するとして)

なので、「不確かな自分の存在を補強するための”帰属意識の高揚”や”歴史の正統性の裏付け”、その手段としての愛国ソング」とみるのは疑問だ。
(「ソクラティックラブ」など「自分の不確かさ」をテーマにした歌もあるが)

確かに意図に反した印象を与える歌詞には問題がある。

でも、30数年日本に暮らしてる中で愛着や敬意が培われ、それを歌にしたいという気持ちは誰もが自然に受け入れられ、共感できるものだろう。

最終的にはこの歌に対してそれ以上言うことはないように思う。

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