1980年12月8日ザ・ビートルズのジョン・レノンがマーク・チャップマンという25歳の青年の凶弾に倒れた。
20世紀最大のアーティストの死は瞬時に世界に広まり、同時にある逸話もセットで語り継がれることになる。

それはチャップマンが犯行後に現場で「キャッチー・イン・ザ・ライ(邦題:ライ麦畑でつかまえて)」という小説を読みふけっていた、というもの。

チャップマンは作品世界に没入し、主人公ホールデン・コールフィールドと同化して、犯行に及んだ。
つまり、「キャッチャー」の物語が犯行の引き金になった、ということが事件の背景として知られている。

ここで取り上げたいのは、
でも、果たしてチャップマンの読み方は正しかったのか?
「ライ麦畑でつかまえて」の最大のテーマは殺人を引き起こすようなものだったのか?

という点。

疑問を投げかけるくらいなので、もちろん結論として言いたいのは「誤読だった」ということ。
また、その解釈・イメージはチャップマン独自のものではなく、元々一般的にもある程度浸透しているものでもある。

事件によってよりチャップマン的「キャッチャー」像が定着するのは、それなりに読み込んだ読者としてはモヤモヤする思いがある。

最近事件を扱ったドキュメンタリー作品を観たこともあり、この機会に作品の解釈について自分の考えをまとめてみたい。

「チャップマンの誤読」をテーマにしているが、数多くあるライ麦論の一つとしても読んでもらえたらと思う。

前置き① 参考にしたドキュメンタリー映画2作品

事件の全貌については解明されていない点もあるし、単純に知らないことも多い。

中には「ジョン・レノンの反戦活動を嫌ったCIAがチャップマンを『キャッチャー』を使って洗脳し暗殺させた」という陰謀論まであって、「真相」はわからない。

そこで、ここでは事件を映画化した2つのドキュメンタリー作品を元に考えている。
問題の「チャップマンのライ麦の捉え方」については概ね2作品とも共通していて、一般的な見方ともギャップはない。

「チャプター27」

タイトルは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が全26章であることに由来。
ストーリーはチャップマンがニューヨークに着いてから犯行に至るまでの3日間が描かれている。

「キャッチャー」を読んだ人なら、至る箇所でチャップマンの言動が作品をなぞっていることがわかるだろう。
どこまでが事実に基づいてるかは不明だが、【犯行前にレコードを購入】など次の作品と共通してるシーンは史実と思われる。

「ジョン・レノンを撃った男」

こちらは犯行3ヶ月前から収監後の様子も描かれている。
作中のナレーションの独白は全てチャップマン本人の言葉ということだ。

外見は、実物や「チャプター27」のチャップマンと違って、ポッチャリしていない。
内面的なキャラクターは両作品とも人当たりのいい一面もありつつ、「いつ暴発するかわからない」危うい雰囲気を漂わせている。

エンタメ作品としては「チャプター27」の方が純粋に引き込まれ、面白かった。
犯行前後の様子も知りたい人には「ジョン・レノンを撃った男」がオススメ。

前置き② 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の読書体験について

邦訳「ライ麦畑でつかまえて(野崎孝訳)」を初めて読んだのはハタチ前後の時。
はじめはよくわからなかったが、何度も読み返していく内に面白さと凄さを感じるようになった。

細かいところはあまり覚えていないが、10回近く読んでいるので全体的な解釈についてはおおむね記憶に残っている。

断っておくと、解説書も数冊読んでいるので、部分的にその影響もあるかもしれない。
手元にある「サリンジャー戦記(村上春樹・柴田元幸著)」を読み返したら、正にチャップマン式解釈は無理があると指摘していた。

ただ、重要と思うポイントで自分の捉え方と異なるところもあったので、同意できる点は引用させてもらいつつ、自分の考えを書いていきたい。

あと、10回も再読しておいてなんだけど、純粋な愛読者かというとそうでもない。
奇跡としか思えない作品だし、部分的にはシンパシーを感じるが、トータルで好きかというとイエスとは言いにくい。その辺りについても後述。

村上・柴田も「個人的なキャッチャーシンパではない」と前置きしていて、ライ麦はそういう【熱心な読者だけど愛読書とは言えない】という人が少なくない気がする。

ちなみにビートルズ、ジョン・レノンに関しても特にファンというわけではない。

犯行動機ーチャップマンは「キャッチー・ライ・ザ・ライ」をどう解釈したのか

まず、チャップマン的≒一般的な「キャッチャー」像について確認。
一言でまとめるとそれは「インチキ・欺瞞的なものに対する反抗」であり、同時に「イノセンス・無垢なものへの憧憬」と言える。

前者に代表されるものが「大人、社会」であり、後者が「子供」である。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は直訳すると「ライ麦畑の捕まえ役」で、このタイトルは作中ホールデンが妹のフィービーに語った「将来なりたいもの」に由来する。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない―誰もって大人はだよ―僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ―つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

「欺瞞に反抗する純粋な少年の青春小説」というフレーズは「キャッチャー」の代名詞としてよく見かけるだろう。

とりわけ、チャップマンは「インチキへの憤り」に共鳴し、怒りの矛先をジョン・レノンに向かわせることになる。

では、「愛と平和」のイメージが強いジョン・レノンのどこに「インチキ」を嗅ぎ取ったのか?
映画で描かれていたのは正に愛と平和を歌う「イマジン」とジョンの実生活とのギャップだった。

「想像してごらん、財産のない世界を」と歌いながら、自分はありあまる富を所有し、豪華な生活を送っている。

元々ビートルズファンだったチャップマンはその欺瞞的なふるまいに裏切られた思いで、犯行に駆り立てられる。

歌詞に関しては確かにツッコミを入れたくなる気持ちはわかる。
しかし、殺意にまで発展するのは正気じゃないとしか言いようがない。

実際、犯行の数年前に精神病院への入院歴があることがわかるシーンがあるので、精神的な問題もあったのだと思われる。

ともあれ、チャップマンにとって「キャッチャー」は何より「インチキに対する怒り」の書だったと言える。

「”偽善者は死ね”と書いてある。」とつぶやくシーン (「ジョン・レノンを撃った男」)

チャップマンは裁判で本の「ライ麦畑の捕まえ役になりたい」というくだりを朗読までしている。
完全に犯行の正当性を確信している様子で、迷いや後悔の念は少しも見えない。

「キャッチャー」が「インチキを糾弾する作品」とは言えない3つの理由

本題の「誤読」だと考える理由について。
大きく分けると理由は次の3つ。

  • 作品のテーマは「イノセンスvsインチキ」の対決ではなく、その狭間で揺れるホールデンの姿
  • J.D.サリンジャーの作家性と精神性ー外側ではなく内側に向かう意識
  • ホールデンの一番の叫びは他者への「攻撃」ではなく、他者からの「受容」

① 作品のテーマは「イノセンスvsインチキ」の対決ではなく、その狭間で揺れるホールデンの姿

チャップマンは作品も現実もまるでヒーローアニメみたいな善vs悪の図式でみている。
それは先に挙げた「欺瞞に反抗する純粋な少年の青春小説」という一般的なイメージとも重なっている。

でも、そういった先入観で読むと違和感を覚える読者も多いのではないだろうか。
自分もはじめその点に疑問を感じた。

ホールデンは確かにイノセンスに対する高い意識がある。
でも、同時に自分もその場しのぎの儀礼的な言葉を吐き、デタラメを口にする。
煙草を吸い、酒を飲み、女を買い、十分「大人」側に足を踏み入れているのである。

頭髪の半分が白髪という身体的特徴が、その両者の狭間にいる精神状態を表している。
「キャッチャー」から「イノセンスvsインチキ」という図式のみを拾いあげるのは、あまりに偏った見方と言える。

「欺瞞に反抗する純粋な少年」という表現も、キャッチフレーズとしての都合もあるにしろ、本質を捉えられていないように思う。

「サリンジャー戦記」から同様のことを指摘しているコメントを抜粋。(太字引用者)

【柴田】
この小説、イノセンスがポイントではないというのはちょっと衝撃的ですね。

【村上】
だって、この本を読む人がみんな、ライ麦畑に潜んで子どもの捕まえ手になりたいと思っているわけじゃないですよ。(中略)
そういう問題じゃないんですよね。ホールデンが精神的にそういう場所に行かざるを得ないというルートは、それなりにひしひしと理解できる、と。
そういうことだと思うんですよね。ホールデンがちょっと特殊だということは、ほとんどの読者にはわかるんです。でもホールデンは特殊であることによって、読者のいろんな事情を吸い上げていくんです。それがホールデンという人物の機能なんです。
イノセンスへの傾倒というのは、その機能のひとつに過ぎません。

これまでの「キャッチャー」の読み違いみたいのは、だいたいそのへんにあるんじゃないかなというふうに思います。事象の流動性と関連性の中に、ホールデンが自分の魂の託し場所を探し求めるという動きに、いちばん大事な意味があると思うし、その動きをはずして、テーマ主義でイノセンスみたいなものを梃子にしてこの話を解析していくことは、かなり無理があるだろうと。(p.176)

村上はチャップマンについても次のように分析している。

「あの人たちはそういう短絡的傾向のある因子を抱えてこの本を読むから、あっちのほうに行っちゃう」

本当にその通りで、作品の性質が犯行を誘発したというより、本人の気質が作品の一面だけを増幅させた結果だと思う。

② J.D.サリンジャーの作家性と精神性ー外側ではなく内側に向かう意識

文学に限らず、小説は書き手の意識を反映している。
とりわけ「キャッチャー」は著者自身の姿と密接に結びついていて、ホールデンはサリンジャーの分身と言える。

そのホールデンからも著者自身からも、感じられるのは外側ではなく内側へ向かう意識。
他者や世界に働きかけるのではなく、外部から離れ内側に閉じる志向が読み取れる。

作中、ホールデンはある願望に想いを馳せる。
それは「西部へ行き、話せず耳も聞こえない人間のふりをして生きて行く」というもの。

そして、有名な話だが、著者のサリンジャー自身も亡くなる2010年までニューハンプシャー州コーニッシュの森の中で社会との関係を断絶した生活を送っている。

「サリンジャー戦記」にこんな逸話が紹介されている。

コーニッシュに移住後、サリンジャーは地元の高校生たちとは交流をしていたが、生徒が地元の新聞に載せるという条件で受けたインタビューを一般紙にスクープとして掲載。激怒したサリンジャーは交際を断ち、自宅の周囲に2メートルの壁を設置し断絶を深めた。

これを読んですごく「サリンジャーらしい」、ひいては「ホールデンらしい」と思った。
激怒した時(激怒した時ですら)、外部に向かって攻撃的になるのではなく、より内側に閉じるのである。

そこからも、ホールデンにシンパシーを感じたチャップマンが物理的に他者を攻撃したことに大きなズレを感じる。

理由①にも書いたように、あくまで自分の内部を問題とし、内側へと向かう物語なのである。

③ ホールデンの一番の叫びは他者への「攻撃」ではなく、他者からの「受容」

3つ目が「キャッチャー」の最も大きなテーマであり、ホールデン(≒サリンジャー)の一番の叫びだと自分が考えているポイントになる。
また、「サリンジャー戦記」では言及されていなく、一部村上の考えと異なる点でもある。

理由の前にひとつ確認したいのは、「キャッチャー」は読者の読み方もかなり大事になってくる作品であるということ。
文面以上の心理を読み込もうとするスタンスで読まないと伝わりにくい箇所が多いのだ。

例えば、ホールデンが「冬の池が凍ってる間、アヒルはどこに行ってるんだろう」と気にかけるシーン。
文面だけだと、なんの意味も面白みもない描写に思える。

でも、アヒルが居場所がない自分の姿を重ねたものだと見ると、グッとホールデンの不安な心境が伝わってくる。
そういった読み方をしていくと、色々な描写が有機的につながって、文面の奥から(ある程度は一定の、ある程度はごく個人的な)「キャッチャー」像が立ち上がってくる。

自分が初めて読んだ際につまらなかったのは、娯楽作品のように提示された情報しかインプットしていなかったことが大きい。

そして、そんな読み方をして、文面の一番深いところから聞こえてきたのが「他者からの受容」を求める声だった。

ホールデンは冬のニューヨークを彷徨ったあと家に着き、親愛の情を寄せる妹のフィービーに会う。
お土産に買ったが壊れてしまったレコードをフィービーに見せるとフィービーはこんな言葉をかける。

「そのかけらをちょうだい」

壊れたレコードを受け取り、引き出しの中にしまう姿に、ホールデンはすっかり「参ってしまう」。
このシーンからは【ボロボロに壊れたレコード(=ホールデン自身)を受け入れてくれるフィービー】という心象風景が見て取れる。

3度も退学をくらった自分を受け入れてくれる喜びと、受け入れてほしいという願望がひしひしと伝わって来る。
【イノセンスの象徴であるフィービーに受け入れてもらう】というのも重要なポイントだ。

この後、再び家を出るホールデンにフィービーがお金を渡してくれるシーンでは、いよいよ堰を切ったように涙を流している。

そして、最後のシーン。
ここがこの小説とサリンジャーのスゴさが極まっている箇所である。

ラスト、フィービーが回転木馬に乗って、それを眺めているホールデンはまた多幸感に包まれる。
「大声で叫びたいくらい」「突然、とても幸福な気持ち」になる。

延々と回り続ける回転木馬というのは「永遠性」のメタファーだろう。

ホールデンは博物館や亡くなった弟のアリーなど「永遠に変わらない」ものを好む。
一方、子どもが大人に堕落するような「変化」はホールデンにとって忌むべきものである。

フィービーが回転木馬で回り続けていることからは2つの喜びが汲み取れる。

一つは自分が愛するイノセンスの象徴が永遠性を得たことによる喜び
もう一つはボロボロのレコードを受け取ってくれたように、全面的に自分を受け入れてくれる存在が永遠性を得たことによる喜びである。

この2重の構造が、この小説の一番「スゴイ」ところだ。

自分が最も愛し憧れるイノセンスな存在に無償で受け入れられ、のみならず、その存在が永遠となるのである。
そこには自分もイノセンスの側にとどまれるという保証も含まれているだろう。

完全に真空パックされた幸福な世界。
これはある種、究極の承認願望の実現であり、自己実現、というより自己保全と言えるのではないだろうか。

サリンジャーはそんな理想の世界を小説内に作り上げた。
切実な内的真実をこんな風に物語として紡ぎあげたのは本当に見事だと思う。

もちろん、それは刹那的なものであるし、あくまで心理的な錯覚でもある。
でも、だからこそ人を揺り動かすほど儚く美しいのだと思う。

同時に、冷静に現実的な視点で見ると、やや「怖さ」も感じる。
全肯定してはいけない、という危機感に近い気持ちにもなる。
そこが個人的に「ライ麦」が全面的に好きとは言えない理由でもある。

チャップマンの話に戻すと、チャップマンはイノセンスを守る「キャッチャー」を自称した。
でも、3つ目の理由のように、作品からより強く聞こえてくるのはむしろ「イノセンスな存在に抱きとめて欲しい」という叫び声なのである。

「キャッチしたい」ではなく「キャッチしてほしい」。
それが叶う時、ホールデンは「大声で叫びたいくらい、とても幸福な気持ち」になるのである。

その点は原題が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と能動態であるのに対し、邦題が「ライ麦畑でつかまえて」と受動態であることと符合する。
本当に示唆的で的を射た意訳だと思う。
(「ライ麦畑でつかまえて」はホールデンが記憶違いで覚えていたものでもある。そう記憶がすりかえられたのも自らの無意識の願望の現れかもしれない)

以上が、何よりチャップマンが「キャッチャー」を読み違えていると感じる3つ目の理由になる。

前置き②で書いた「村上春樹と解釈が違う点」について説明すると、
村上は妹のフィービーをホールデン同様「サリンジャー自身の分身の一人」と見なしている。

自分はもし分身であったとしても、それ以上に他者性が強い存在だと考えている。
レコードのくだりのように、承認を与えてくれてその承認が強力であるためには自分以外である必要があるからだ。

さいごに

事件のドキュメンタリー映画を見て、その動機とライ麦の解釈はどうなんだと疑問に思ったので、自分なりの考えをまとめてみた。

上記の面にも目を向けていれば、チャップマンは盲目的な凶行に走ることはなかったんじゃないだろうか?と思う。
ドラッグやら子供時代の父親の虐待も絡んでるようなので、やはり何かしらの形で暴発していたかもしれないが。

もう一つ、昔からライ麦を「反社会的アンチヒーロー」物としてみなすことに疑問を感じる理由がある。
この点については、今まで一度も言及されてるのを見かけたことがなく、ずっと気になっているポイントでもある。

「ライ麦畑でつかまえて」の巻頭には次の言葉が書かれている。

「母に捧ぐ」

サリンジャーの母への想いやこの言葉の真意はわからない。
ただ、やはり母性のような「無償の愛」を求めるサリンジャーの声がこの作品には込められている気がしてならない。